牧野富太郎記念館 2005.04
建築ネタばかり続いていますが、気にせず・・・
たまたま仕事で高知を訪れることになって、どうせならと日帰りではなく一泊してぶらり一人旅ってなわけではたまた建築を見てきました。高知市内の五台山中腹にある高知県立牧野植物園の中に内藤廣設計の牧野富太郎記念館があります。広大な敷地の植物園の中には、温室があったり、藤棚みたなのがあったり、芝生広場があったりして高知の豊かな気候がはぐくむ様々な植物が植えられておりとても気持ちの良いところです。
その中核施設として本館と展示館の2つの建物があるのですが、それが内藤さんが設計した建築です。
感想は一言で言うと「すげぇーよかった」です。三重鳥羽にある「海の博物館」より僕は良いと思ったし、自然の中にとけ込むというコンセプトでは5本の指に入るのではないでしょうか?
先日書いた「富弘美術館」の真逆を行くような建物といえるかもしれません。全くもって作り方が違いますよね。
敷地が豊かな自然(植物園)の中であり、その山が持つ稜線に沿うかたちで建物は作られています。建築という人工物と自然との協奏曲を奏でようとがんばっている感じを受けました。つまり、周辺環境に真正面から向かい合っている感じです。
寄棟の細長い空間が中庭を囲むようにぐるっと円状に巻いたような形をしています。そんなドーナツ型空間を敷地の段差にそって3次曲面になりながらも地形になじませ、不整形なちょいと簡単には図面化できないようなボリュームとなっています。低層で、屋根面が大きいため、建物周辺からは屋根しか見えないような形になっています。結構これが素敵。
壁をコンクリートで立ち上げ、その上に木(ベイ松集成材)により屋根形状が作られており、内部からはその架構が並んでいるのが見えてとてもきれいです。接合部は鉄骨がかなり手助けしていますがとても美しいです。(構造設計はSDGです。)
この屋根の架工を並べるという手法は内藤さんの18番ですが、曲面をもって展開しているのは初めてみたのですが直線的よりよりダイナミックな感じを受けました。単純にかっちょよいです。
内部は中庭に開くような感じで、中庭にいると建物によって暖かく包まれているような感じを受けます。それが視線が所々外部に抜けているためかあまり建物に囲まれている感がなく、良い感じです。
展示内容もなかなかよくて、牧野富太郎さんの生涯が人間味をもって紹介されています。植物が好きで好きで仕方なく、気になるものはよく観察し、うまい下手に関わらず絵で写生し、分類し、そのままその道の専門家、日本の植物学を築いたという様子がよく展示されていました。お金も一時期相当困っていたらしくそれでも、研究を続けていたとか・・・なんだかフリーな僕をちょっと勇気づけていくれている気がしてうれしかったなぁー。
「建築良くても展示が悪い」という公共施設はよくありますが、この建物はみんなが愛情を持って作っている感じがしましたね。
で、この建築は何がよいのか?
使っている手法はオーソドックスな手法で、中庭を囲む構成とか、くぐって開けるとか、段差を利用した変化に富む空間とか、特に目新しいわけではありませんが心にはズーンってきます。特に視覚的な現象を扱って利用者に驚きや目新しい経験を求めてはいません。
安藤さんにはちょっと強制的なまでのダイナミックなシークエンス(シーンの連続)が僕たち利用者に強制されている感じがしますが、もう少し自由な感じでします。
安藤建築は利用者が安藤さんの作ったストーリーにずどんとはまるととても気持ちよいのですが、一回入り損ねるとだめなところがありますよね。
この牧野富太郎記念館は安心して建築が存在し、僕たちの周りをつくる環境として在ると言う感じでした。「リビングは環境です」なんてことなわけです。
富弘美術館と大きく違うのは作り方でしょう。ヨコミゾさんは新しいことが建築を作る評価のなかで重要なのでしょう。内藤さんは既存のアイテムを使って、新しい組み合わせを作ろうとしている。ヨコミゾさんは新しいアイテムを作り出そうとしている。そんな違いがあるのではないでしょうか?
ただ、新しいアイテムをつかうとこんな素敵なことができるってことは、予想することはできても本当かどうかを実感することができるのはでき上がってからです。「新しいこと=良いこと」は理由なく認めるのか、その辺が難しいところです。現代美術であればわりと「新しいこと=良いこと」は認められている気がしますが。
とはいえ、新しいことをして僕たちは発展してきたんだし、人間の身体の能力も環境によって引き出されるわけだから既存の使い古されたアイテムだけをこね回していないで、実験していかないといけない気もします。「新しい建築(作品)に時代が付いてきていないだけ」なんてことも歴史的にはあるわけですから。
「税金使って実験して失敗したらどう責任取るの?」なんて言われかねないのが建築の悲しい性ですが、若手建築家はがんばって前に進もうとしているわけです。「前」というとおかしいかもしれませんね。その方向が後から振り返ると結果的に「前」だったのか、「右」だったのか、「後ろ」だったのかわかるわけですから、とりあえずとどまらないで「進む」ことが重要なのかもしれません。